<報告2>■証言集会■
「台湾の阿媽たちのお話を聞く会」
1. 「集会の目的は」との問いをつきつけられて
「証言集会」なるものは、写真展とは全く違う次元に属する出来事でした。それは単なる集まりではなく、文字通り「出来事」だったのです。これに関しては、もっと後ろの方でお話しします。
話が前後しますが、証言集会が終了した後、私は高校生2人組から質問を受けました。彼女らは、「ナヌムの家」の矢島さんの知り合いだそうです。しかも、彼女らの質問は、かなり本質的なものであった故に、私はとまどいました。それは、私に一つの「問い」を突きつけたのです。彼女たちの質問は、「このような集会は何を目的としているのか」というものでした。
今回の証言集会は、私の限られた証言集会の経験からみても盛況でした。会場は若者たちの熱気にムンムンと溢れていて、それでいて温かい雰囲気があったように思います。あれは、確かに文教大学国際学部と茅ヶ崎カトリック教会を合わせた結果生まれた、一種の「コミュニティ」だったと思います。
普段、授業で見慣れている学生らが、こんなにたくさん集まったことは私にとっても嬉しい誤算でした。
また、秀妹阿媽も、お話をなされている最中に感情的になってしまったことからも分かるように、多くの証言を彼女からお聞きすることができたと思います。
そんな証言集会の後だっただけに、そのような質問を受けて、私自身も、この集会の意義をもう一度問い直さなければならないと思いました。なぜなら、その質問に対する答えは、当たり前のことに感じていたために、考えることさえも忘れていたからです。しかも、集会の後、私はいろいろな人と挨拶などを交わさなければならず、あの高校生らの質問には充分な時間をとって答えることができなかったのです。それ以来、どうしてもあの質問が心の中に引っかかってしまい、集会のすぐ後のゼミにおいても、学生らにもこの質問をぶつけてしまいました。答えを急いで出さないで、まず証言集会の様子からお伝えします。
2.性暴力とその記憶を生きてきた阿媽から
あふれでた感情とリアルな過去
証言集会当日の12月8日は、多くの学生が6時20分まで授業があり、(開始予定であった)6時30分に全員が間に合うと私は思っていませんでした。しかし、幸いにも(?)柴さんらの茅ヶ崎入りが遅れ、開始時間が少々遅れました(長谷でノンビリしていたことはMLでの報告にあった通り)。そのため、多くの学生が集会の開始に間に合うことができました(結果オーライということですね!)。会場に秀妹阿媽が登場した頃には、すでに会場は満席で立ち見の学生もいたほどでした。
実は、6時15分の段階では、会場にはこの集会の運営を手伝ってくださった茅ヶ崎カトリック教会のみなさま、藤巻ゼミ&奥田ゼミの学生しかいなかったのです。
私は学生らと共に、不安になっていました。「30人も集まればよしとするか!」と気持ちを切り替えてまでいたのです。しかし、6時25分ごろから、ぞくぞくと学生たちが茅ヶ崎駅の方向からやってくるではないですか!そうか、山中のキャンパスからはバスで来るしか方法がないから、まとまって彼女ら・彼らはこちらにやってくるんだ、と納得したものです。
とにかく、会場は瞬く間に学生たちの熱気で一杯になってしまいました。会場設営のお手伝いをしたり受付を担当していた学生を除いて、会場に詰め掛けた人の数は、138名でした。それにスタッフも加えれば、軽く150は超える人数が、茅ヶ崎カトリック教会に集まったのです。
12月であるため、祭壇にはクリスマスの飾りをつけたキリスト像が配置されていたこと、カトリック教会のみなさまが秀妹阿媽や学生たちが寒くないように、早い時間からずっとストーブを焚いてくれていたこと、カトリック教会が木造であったことも手伝って、会場は非常に温かい雰囲気に包まれていました。そして、いよいよ秀妹阿媽が通訳の許照美さんと共に登場し、台北市婦援会の呉慧玲さんと通訳の青砥祥子さんも登場しました。
結果的に、秀妹阿媽はほとんどの学生の心を掴みました。それにはいくつかの理由があります。
第1に、秀妹阿媽の語り全体が、彼女のこれまでの彼女の過去を表現するには充分すぎるほど、リアリティに満ちていたことです。
その一方で、このような機会は、通常の意味における証言とは少々趣きが異なることも記さなければなりません。彼女の証言は、単に「記録する」こととは別の次元に属していたということです。
常に一人称で、正確な日付も時間も語られることなく、彼女が経験した過去が語られます。そこにリアリティを与えたものは間違いなく、すさまじいまでの性暴力が彼女の頭の中に忌まわしいものとして巣食い続けたこと、そして決して消え去ることのなかった彼女の重苦しい時間の積み重ねを知るには充分でした。
性暴力とその記憶を生きてきた彼女の経験の層の重なりが、彼女の声の震え、声の調子、表情、涙、一点を見つめて話す彼女の目、抑制が最初は効いていたけれども話が進展するうちに抑えることができなくなってしまった彼女の感情を通して、表出してきてしまうのです。聴衆は、彼女の感情のほとばしりを目撃することで、その向こう側に必然的に存在しているリアルで、耐えることのできないほどの深刻さを目撃することになるのです。
タイムマシンでもない限り、聴衆は実際に起こった過去を目撃することはできません。そんなことは、誰にでも分かっていることです。しかし、この証言集会は、彼女の感情の表出を見ることによって、聴衆はその向こうにあるリアリティとその重さを目撃することになったのです。圧倒的なまでの暴力、それを今まで表明することのできなかった抑圧感、それらの諸々の作用さえも、聴衆は目撃することになってしまうのです。
そういう意味で、この集まりは、精緻な過去の記録にとどまるものではなく、それ以上にリアルな過去を、彼女の感情を通して聴衆が目撃したことになったのです。聴衆は、この過去の存在を100%確信しました。そういう意味で、これは証言集会として成功していたのだと感じています。
第2に、これは私だけではなく一部の学生も感じていたことですが、秀妹阿媽の語り方が、まるで少女のようであったことです。それは、「私たち」の目の前の彼女を、60年前に遡って目撃してしまったような気持ちにさせました。これは、全くの偶然なのかどうか不明ですが、またこのような憶測でモノを言ってはならないとも思うのですが、とにかく、「私たち」はそのように感じたのです。
60年前、彼女が性暴力を受けて以来「日本人」の前で証言を多分一度もしたことがなかったために、声をあげてしかるべきであった時間に戻ってしまってお話していたような印象を受けてしまったのです。ここでは、抵抗する声を奪われ、また現在において表明することさえも難しくさせた社会的な構造そのものと、それが積み上げてきた時間の重さを感じることができたように思います。これが、性暴力の与える苦痛であり暴力そのものであると実感しました。
第3に、秀妹阿媽は適切な聴衆を見つけたのだと思います。
この場合の「適切な聴衆」とは、「行儀の良い」というような意味ではありません。また、「倫理的である」という意味でもないと思います。これは、秀妹阿媽の証言が今まで待ち望んでいた聴衆であったという意味です。「待ち望んでいた聴衆」とは、「日本人の若者」という意味です。
人間は、一人では決して発話することはできません。自分のために日記を書く人間だって、必ずその日記の内容を誰か他の第三者に向かって書いているのです。つまり、何かを発話するというコミュニケーション行為は、第三者の存在があって初めて可能になるということです。秀妹阿媽だって、地面に穴をほって誰もいないその穴に向かって自分の過去を語るわけではありません。
また、例えば、戦友会の人びとの前ではこれと同様の証言は行わないでしょう。聴衆は日本人の若者である必要があったのだと、私は思っています。日本人の若者にこそ聞いてもらいたい内容の証言であったと思います。
そういう意味で、日本人の若者が聴衆として、秀妹阿媽の証言を多く引き出したのではないかと思っています。そして、上にも記した通り、聴衆は圧倒的なリアリティを肌で感じることができたのだと思います。ですから、秀妹阿媽と日本の若者というマッチングは、ベストな組み合わせだったのだと思います。そういう意味で、秀妹阿媽によって求められた組み合わせですから、聴衆の心を掴むことは比較的簡単に予期することができたのです。
秀妹阿媽は聴衆に向かって謝罪もしていました。
どのような謝罪かというと、それは「日本人のみなさんが悪いのではありません。悪いのは日本政府です。日本のみなさんはみな良い人です」というものでした。この言葉をどのように受け止めるのかで、彼女と「出会う」ことができるのか、それとも出会い損ねるのかが決まってしまいます。なぜなら、この言葉を字句通りに受け取ってはならないからです。これは、秀妹阿媽が彼女の求めた「適切な聴衆」に聞いてもらったことに対する謝辞の言葉であると私は思っています。自分の望む聴衆に、ことばを投げかけることができたことに対する謝辞なのです。
その一方で、このメッセージは、誤解を受けやすいものです。
なぜなら、明治からの連続性の上に成り立っている現在の「日本」
「日本人」、そして阿媽たちの要求を裁判を通して棄却し続けた司法、慰安婦の存在を商行為にまでおとしめた政治家、これらは現在の「日本人」の参画によって野放しになっていることくらい、阿媽たちだって知っていると思います。選挙によって選出されているのが政治家であるし、最高裁判事もまた国民による審判を受けているわけですから。
また、慰安婦問題を知らないで「ヒロシマ・ナガサキ」だけを知っているのは、日本という国民国家における構造的な記憶の問題なのです。したがって、彼女のこの発言を、自らの「日本人」という帰属意識に対する免責のお墨付きをもらったような気持ちになっては本質を見失います。実際、一部の学生の残したそのようなコメントは、全く誤読であると断言します。
また、これはネガティヴな面なのですが、秀妹阿媽の証言のショック・ヴァリューが強すぎて、彼女の証言を聞くことだけで、すべてを知ってしまったかのような錯覚も生まれてしまったかもしれません。
例えば、婦援会の呉彗玲さんのお話しや柴さんのお話しは、学生らに忘れられてしまった感があります。
秀妹阿媽の話しを聞いて安易に感情移入をすることで、すべてが終了してしまったかのような気持ちになる危険さが、ここにあると思います。刹那的な感情移入だけでは、彼女の証言を未来に向かって生き延びさせることは出来ません。
この点に関しては、証言集会の次の週の授業で強調しておきました(「暴力・証言・記憶」という授業を担当しています)。彼女と出会い損ねることのないように、と。
3. 学生たちは元「慰安婦」に出会っていた、
しかし、出会い損なっていた
私は学生らとのゼミディスカッションの中で、一つ確信したことがあります。
彼女ら・彼らは、秀妹阿媽と今回出会う以前から、元「慰安婦」とは「出会って」いたということです。それは、学生たちが高校生のころ歴史教科書で出会ったことかもしれないし、所謂「つくる会」や小林よしのり氏の漫画の中での出会いだったかもしれません。
学生らが、「慰安婦」という言葉をかなり昔から知っていた以上、彼女ら・彼らは、実はすでに「出会って」いたということです。
これをメディア的「出会い」と呼んでもよいでしょう。学生たちは、(教科書も含む)メディアを通した経験の中で出会っていたという意味です。
しかし、「出会い」の方法を知らなかったために、簡単に忘れるほど些末な存在になってしまっていたのかもしれません。単なる受験勉強の一環だったために、忘れてしまったのかもしれません。
また、「慰安婦」の存在は国家への帰属意識をはかるリトマス試験紙のような機能を果たすため、友人たちとの会話において、図らずもその存在を否定してしまったことがあるのかもしれません。
この場合の「出会い」は、ハルモニや阿媽をひとまとめに括り、そしてステレオタイプ化することで、彼女らの存在を匿名化します。
匿名化による「出会い」は、彼女らを一人ひとりの人間として見ることがないため、実体を伴わないのです。そのために、何らかの形で出会っていたにも関わらず、実は出会い損なっていたのです。彼女ら・彼らは、「公娼制度」の意味も全く知らなかったし、「国民基金」の存在さえ知らないのです。
「慰安婦」という言葉は知ってはいても、本当の意味では出会っていなかったのです。
今後も、学生は、メディア的に彼女らと何回も出会うことになるでしょう。今回の証言集会において何かを感じた学生は、秀妹阿媽の証言を聞いた今となっては、別の「出会い」をすることの可能性が必ずあるのではないかと確信しています。
4.なぜ、阿媽たちは日本の若者の前で証言するために来日するのか
―この問いへの答えを模索する
さて、最初の方で「問い」として提示しておいた「証言集会」の意義についてです。当たり障りのない普遍的な意義としては、「まず『知る』ことが重要であるから、このような集会を利用して日本の若者、市民たちに性暴力の実体とリアリティを知ってもらうこと」というものになるでしょう。しかし、これでは少々抽象的な気がしてなりません。なぜなら、「知る」ことは大切なことではありますが、「知る」のレベルがどの程度のものかも具体的に明記しなくてはならいのだと感じています。
ここで求められている「知る」こととは、以下のようなものであると感じています。日本の若者たちは、彼女のご指名を受けたことの理由を知った上で、秀妹阿媽の「聴衆」になることの歴史的意味を知らなくてはならないということです。
つまり、秀妹阿媽と聴衆との「出会い」は、証言集会が開催されることが決定した時点でとっくに始まっており、そして、証言集会の持つ意義とは、その「出会い」の歴史的意味を現在において問うことなのではないかと思っています。「なぜ阿媽たちは、日本の若者の前で証言を行うためにはるばる台湾からやってくるのか」「阿媽だけでなく、ハルモニや大娘らが、なぜ証言を日本の若者の前で行うために、韓国や中国の山奥からはるばるやってくるのか」――この問いに対する答えを模索することが、阿媽との「出会い」を歴史的なものにすることであり、証言集会を開催することの意義であると思います。これが、高校生の2人組に答えるべき内容であったのではないかと思っています。
証言集会とは「出来事」です。ここでの証言とは、聴衆がいなくても成立するわけではありません。むしろ、聴衆が、秀妹阿媽との「出会い」の持つ歴史的な地平を見つめることによってはじめて、彼女の証言は「出来事」になるのです。「出来事」とは、聴衆による積極的なコミットメントによってしか成立することができないのです。
今回は、有る程度「出来事」になったのではないかと思っています。
出会いの歴史的な意味を現在において問うために、私の授業の中でもスケジュールを変更して、「慰安婦」問題に関する争点を取り上げ、学生らも準備をしてきました。
授業は、ちょうどクロード・ランズマン監督の『SHOAH』という映画の解説をしていたころでした。この映画は、トラウマを伴った過去を語ることの可能性、または不可能性を追求したドキュメンタリーとしてその地平を開いたものです。この映画以降、多くの証言に関する映画は、『SHOAH』に影響を受けたといっても過言ではありません。ですから、その時の授業は、証言することの意味であるとか、証言を目撃することで発生する応答責任について解説していたのです。これは、秀妹阿媽の証言を目撃することの準備としては充分であったと思います。
また、私は歴史家ではないので、歴史的なアプローチを授業の中で解説することができません。そのため、過去の断片の一つひとつよりも、「公娼制度」ならびに「慰安婦」制度なるものが可能になった社会構造や官・民・軍一体となった植民地支配の社会的構造を説明し、その構造がいかに性暴力をさらに構造化することになったのか、または現在においてもその構造が連鎖していることもポイントとして押さえておきました。また、裁判の争点、国民基金の問題点も基礎知識として話しておきました。今回の証言集会に関して、やるべきことはやったと思いますが、今後の関わり方もまた学生らと共に考えて行く必要があると思っています。
■終わりに
12月8日の準備のために、多くの人たちの協力を得ることができました。まず、会場を快く貸してくださった茅ヶ崎カトリック教会のみなさま、どうもありがとうございました。カトリック教会の方たちとは、新しい「つながり」が生まれました。
まず、現在文教大学国際学部でヒッソリと有志の学生らで行われている「東アジア共通教科書プロジェクト」に、茅ヶ崎カトリック教会の方たちが参加されはじめたことです。また、写真展後の9日には、茅ヶ崎市議会の方たちやNPOサポートセンターの方も写真展にいらしてくださいました。ここでも新たなつながりが生まれよ方には、横浜のカトリック教会でもこのような証言集会を行ってみてはどうかという打診も受け、今後も様々なかたちで阿媽たちとつながりを持ってゆけるようになりそうです。
これは、私の個人的な感想なのですが、許照美さんによる、すばらしい通訳も忘れることができません。秀妹阿媽に自分の娘さんのように接し、彼女の言葉を「私たち」の元に伝えてくださったことに、心より感謝しています。
また、柴さんをはじめとする「支援する会」の皆様に、このような「学び」の場を私たちにいただいたことに関して、心より感謝を申し上げたいと思います。また、これらの「学び」の機会は、もちろん積極的に参加してくれた学生諸君の情熱なくしては、実りのあるもの、つまり「出来事」にはならなかったでしょう。特に、S田くんは、実行委員長として大車輪の活躍でした。
そして、最期に忘れてはならないのは、秀妹阿媽です。お茶目でチャーミングな性格が、若い学生の気持ちをガッチリとつかみました。学生たちは、「また秀妹阿媽に会いたい!」と言っていまして、台湾にまで会いに行ってしまいそうな勢いです(かなり本気です)。また、盧満妹阿媽とは2005年5月にお会いしているのですが、今回は会うことができなくて残念でした。またお会いできる日を心待ちにしております。 (2005年12月19日)
茅ヶ崎カトリック教会で
初めて大勢の前で証言した呉秀妹さん
若い人たちと一緒に
うれしそうな秀妹さん
藤巻 光浩
(文教大学国際学部助教授)